-学校の授業から-
長崎被爆体験の語り部 崎田さんに思う
高橋隆輔


 原爆が投下された昭和20年、当時中学生以上は全員が学徒動員されており崎田さんも例外ではなく昼夜なしで従事していた。その年の8月9日以前にも長崎は4度の空爆を受けている。B29も最初のうちは上空を通 過するだけであり、空に光る姿を見て崎田さんは「キレイだ」とのんきなことを口にしていたと言う。その後はB29も焼夷弾を投下するようになり、それ以来はどんなに眠くとも警報がなったら避難するようになった。原爆投下以前に、既に屋根は蜂の巣状態で空が見えていた。
 運命の8月9日、午前9時過ぎに崎田さんは作業を終え、帰宅。前日は一日中空襲警報が出ており、ずっと防空壕にいた家族とともに眠りにつく。この間、原子爆弾を積んだB29は空襲の煙で視界の悪い第一目標の小倉を諦め、長崎へと向かっていた。
  午前11時ごろ、崎田さんは暑さのために目がさめ、汗ばんだTシャツを洗濯しようと上半身裸で裏庭へ出た。すると金毘羅山から飛行機の爆音が聞こえてきたが、日本の飛行機だろうと聞き流した。その時、長崎市の上空にはB29が原爆を投下しようと待ち構えていたが、市街地はあいにくの曇り空。そこに一時的にあいた穴をめがけて原爆は投下された。崎田さんは上空500メートルほどにオレンジ色の太陽ほどの火の玉 を見たという。その直後、目もくらむような閃光が色をとりどりに変えながら降り注ぎ、同時にものすごい熱さと痛みが襲ってきた。熱いと額に手をやるとなんと額の皮がむけ、だらりと垂れ下がった。このやけどはケロイドになったが10年ほどで消え、今現在では正面 から見ると左耳がややうしろにくっついている程度にまで回復している。そうして、とりもなおさず光に背を向け防空壕に飛び込むが、その防空壕までのわずか1,5メートルほどの間に背中は大やけどを負った。防空壕は家財道具で奥行き1メートルほどの隙間しかなかったが他に逃げる場所もなく、姿勢を低くして耐えた。しかしその時地上の温度は摂氏3000度から4000度と言われており、それはさながら火の中に突っ込まれたような状態だった。
 
目を真っ白い光が突き抜け、実際には10秒ほどの光が永遠に続くかのような錯覚に襲われていた。光が止まったとき、上半身がすべて焼け、感覚が麻痺していたのか、もはや体は何も感じなかった。その瞬間気が抜けボーっとしながら当たりを見渡すが、真っ暗だった。また、体が動くことに気づき、うれしさに意味もなく身をゆすった。その後、舞い上がった埃がゆったりと降りてきて、あたりは少しずつ明るくなった。当初焼夷弾だと思い込んでおりいずれ火災が起きるからその前に家に入ろうと考えたが、家は傾いており、入れない。姉を呼ぶが、姉は既に屋根づたいに逃げており、返事もない。その姉は原爆の光を浴びず、かすり傷すら負わなかった。しかし娘は1年後、体中に原爆症特有の紫色の斑点ができ、死亡した。姉も長く生きたが死ぬ ときは全身にガンができた。
 姉を探すことを諦めた崎田さんはどこかへ逃げようと崖と板戸のわずかな隙間から抜け出ようとするが、体がはまり込み、うまく抜け出せない。もがくたびにやけどの傷跡を岩が削り取り、その痛みに耐えながら、何とか抜け出す。つばを吐こうにも一滴の唾液も出てこないその状況で見たものは、一面 の焼け野原。その時既に元気なものは遠くへ避難しており、物音一つせずこの世の地獄を見たと感じた。また、どこにも誰もいないのでこの世でたった一人生き残ったのだと思い込んだ。自分の知っている兵器に思い当たるものは何もないので、太陽が爆発し、地上でたった一人生き残ってしまった、これからどうやって生きていこうかとどうしようもない不安におそわれた。この状況で何を考えるか、それぞれに考えてもらいたい課題である。
 前方300メートルに丘があったが、その向こうは爆心地。本物の地獄がそこにはあったはずだが、崎田さんは目にしなかった。と、そこに素っ裸で歩く十数人の人がばたばたと倒れていく姿があった。自らが傷を負っていなければとてもそれに目を向けることなどできなかっただろうが、生き残った人が自分以外にもいることを知り、飛び上がって喜んだ。傷つきながらも必死で山へ避難する彼らの姿を見て、自分を奮い立たせ、避難した。その後、そこは火災が起こり、逃げ送れていては命はなかっただろうから、彼らに命をもらったともいえるのかもしれない。
  いったん家に帰り、運良く丸首のTシャツをつかむが頭がとおらない。それもそのはず、そのときはやけどの水ぶくれで顔が2倍ほどに膨れ上がっていたのだ。結局それを着ることはできず、包帯代わりに体に巻いた。その後、岩が崩れ落ちた天満宮に上ろうと足を踏み出すと、「助けてくれ」という声がする。見てみると足と足の間から人間の腕が出てきていた。さらによく見ると崩れた岩の隙間からは腕と白髪頭がのぞいており、周囲には赤子の鳴き声も響いていた。生き埋めになった人々を助けようと、あたりにいた人に「おじさーん」と声をかけるが、返事がない。おじさんが朝鮮人だったため、言葉が通 じなかったのかと思い今度は手をひくとようやく振り返ったが、私の顔を見るなり邪険にその腕を振り払った。そのときの私は皮膚がただれ落ち、血が飛び出し、やけどに土がまみれ、顔は膨れ上がった見るも無惨な姿で、目をかけてくれるものなどいなかった。それでももう一度手をつかもうとすると敵機の音が耳に届いた。そのとたん恐怖心が沸き起こり、人を助けようと言う気持ちも吹っ飛んでしまった。彼らはその後誰からも発見されずに焼死したと考えると、自分が見殺しにした、と思い出すたびに良心が激しくうずく。この体験は本当に何時間かけても話しきれない。
 
原爆投下から3日目の朝、長崎市内に下りてきた自分を探していた親戚に合い、とたんに気が抜け失神してしまった。数日後に意識を取り戻すが、激しい原爆症に襲われ、高熱で危篤状態に。4年後にようやく仕事ができるまで回復するが、また発症する。その後10数回の入退院と手術を繰り返し、現在にいたる。現在、足はひざより上すべてが人工骨になった。内臓、筋肉、血液すべてに異常が出ている。
 「見殺しにした」という思いへの良心の呵責などで、被爆後はつらく暗い日々が続いた。それで被爆体験も語れずにいたが、10数年前、体は腎臓が移植寸前という状態だった頃、世界中に核兵器が6万発以上存在し、人々は平和ボケしている姿を目にするようになる。戦争や原爆は遠い昔のこと、という風潮が生まれ、映画などの戦争シーンを見てかっこいいと口にするものもいた。そのような世相の中、悲惨な体験をしていないからむごさが分からないこのままでは将来が不安でならないと考え、つらくとも、恥ずかしくとも、貴重な体験として話す決心をした。あの時目にした腕と白髪、赤子の鳴き声は今もありありと浮かんでくる。皆さん、これは他人事ではありません。どうすればよいでしょうか。平和の原点は人の痛みが分かること。世の中から核兵器と戦争をなくす方法を知恵を絞って考え、安心して暮らせる世の中を築いて欲しい。

 平和は自分から歩いてはこない。それぞれが努力して初めて訪れる、動詞的なものなのです。 広島、長崎で昭和20年末までに22万人の方の命を奪った原子爆弾。投下から57年経った今も、その後遺症に被爆者は苦しんでいる。広島では、爆心地から半径250メートル以内にいたものの内、昭和21年を迎えられたものはわずかに4人だったと聞く。なんとも恐ろしい2発の爆弾だ。
  しかし、今現在、その恐ろしい兵器ですらおもちゃにしてしまうほどに、核兵器の威力は高まっている。日本を全滅させるには最新の水素爆弾が3,4発あれば事足りると言う。 歴史は繰り返す。その言葉どおり、核戦争の危機が今また迫っている。人類は一度見た悲劇をもう一度繰り返すほど愚かなのだろうか。 今を生きる我々に必要なのは過去の出来事の価値判断ではなく、同じ過ちを二度と繰り返さぬ ようその失敗に学ぶことである。
  いまさらヒロシマ・ナガサキの決定をどうのこうの言うつもりは私にはない。投下の正当性に疑問符がつくような事実も今では数多く明らかになっているが、それでもそれらの事実は是非の判断材料としてではなく、同じ惨禍を繰り返さない方法を摸索するために役立てるべきだと思う。
  被爆された方々の、その壮絶な体験談は、その痛みと平和のありがたさを知るための最高の教科書である。戦争を知らずに、僕らは育った。そのことが幸せだ、と言えるためには、被爆者の痛みと、平和のありがたさを知る必要がある。それを知らないばっかりに同じ過ちを繰り返すようなことがあっては、戦争を知らないことがむしろ不幸となってしまう。 被爆された方にとってその体験談はあまりにも重過ぎるものでなのあろう。中には天に召されることでその体験をようやく忘れられる、と語る方もおられる。それほどまでの痛みを、私達のために、そして人類の将来のために、と語り部となってくださる方がいるということに私達は感謝しなければならない。その感謝の気持ちを表現するため、我々に出来ることは、まずその訴えに真摯に耳を傾けること。そして、未来永劫この体験を地球の将来のために語り継ぐことであろう。
  戦争を経験しなかったものの、経験された方々と同じ時代を生きる私達の責務は、その体験を次の世代へと橋渡しすることではないだろうか。私は被爆者の伝えよう、という尊い決意への敬意として、一人でも多くの若者や、少年、少女達にこの話を届けたい。

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